園長室より
1月の園だより
新年あけましておめでとうございます。年長さんは卒園を目の前にやり残しがないよう教具にしっかりいそしみ、小学校へ向けた仕上げの良い3ヶ月となるよう、祈っています。また幼稚園にとっては来年度の縦割り保育、週一の給食等、改革の年となります。年中・年少さんは4月からの新しいクラスに心を寄せて、良い新年の始まりとなればいいなと願っております。
ところで幼稚園も、来年度の縦割り保育の準備で、各クラスにいろいろな教具を増やしていっています。私事ですが長女がベルギーに住んでいて、モンテ園はとにかく保育料が高いために4歳の孫は普通の公立で余儀なくされています。確かに教具や専用の教具棚は馬鹿になりません。一度にとはいきませんが、現時点でもすでに少しずつは増やしつつあります。子どもたちが新しい環境に少しでも慣れて新年度が迎えられるように、この3学期は、移行期間ととらえたいと思っています。
1月の宗教通信《よろこびの訪れ》
「安息日に麦の穂を摘む」(マルコ2・23~)
本末転倒という言葉があります。辞書では「物事の大切な部分と瑣末な部分を取り違えること」とあり、日常会話の中によく出てくる言葉です。本末転倒した事象がいかに多いかを表しているかもしれません。今月の聖書の箇所を見てみましょう。イエスとその弟子たちの一行は空腹だったのでしょう、あろうことか他人の麦畑を通りながらその穂を摘んで食べていったというのですからびっくりですが、ここでの主題はそのことではありません。当時のユダヤ社会では、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない。…それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」という律法が生きていました。ですから、空腹者が麦の穂を勝手に食べてもよかったようです。「ミレーの落穂拾い」はおそらくそういった情景を描いたものです。
ここでは、その日が安息日だったというところがファリサイ派の目に留まったということなのですから、これまたびっくりします。ユダヤ教では土曜日を安息日として(創世記の「7日目に主は休まれた」に由来か)仕事をしてはいけない日としているのです。キリスト教において、聖なる日と考える主日(日曜日ー復活した曜日としてー)に似ていますが、「聖なる費として過ごそう」と「聖なる日だから仕事は絶対にしちゃあいかん」ではずいぶん違います。土曜日にはイスラエルでは今でも交通機関やエレベーターが止まると聞きます。キリスト教社会ではこういうのもファリサイックと呼ぶのでしょう。
ファリサイ派の人から指摘を受けたイエスはこう答えます。「あのダビデでさえ空腹のときに、神殿でお供えのパンを食べたのを知らないのか?」と、ユダヤ人の祖ともいえるダビデが律法に決して縛られていないということを引き合いに出し、律法が人のためにあると考えていたダビデを比較に出します。そして、「安息日は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない。」と明言するのです。ルールに振り回される滑稽さが見えてきます。
私たちは、日ごろ何かの「良し悪し」を判断するとき、長い慣習に盲目的に従っていたり、世間体とかを判断基準にしたりすることがあるのではないでしょうか。ある規則が本来何のためにあるかを考えないで事象だけにとらわれてしまう時、私たちは多分にファリサイックなものの見方をしてしまいがちです。何が「本来大切だったもの」で何が「枝葉末節のこと」なのか、よく考えて判断したいものですね。ところで西洋人はよく信号無視をするといいますが、彼らは自己責任において自分で判断をするんだと聞いたことがあります。確かに日本では信号を守るのはどうしてかと聞かれると、「ルールだから…」と答えるような気がします。ある種の本末転倒かもしれません。校則などでも、ルールが独り歩きしていた時代が確かにありました。いつも物事の本質を見る力を培いたいなと思います。